金曜日、スタジオへ向かう
前に、Shiokazeはいつもの
カフェに寄った。
家から歩いて五分ほど。
駅とは反対側だけれど、
スタジオの最寄り駅行き
のバス停に近い。
だから、ここに来るのは
だいたい週に一度。
コーヒーを飲みながら、
ノートPCを開いて、
曲のことを考える。
店の隅には、古いアップライトピアノが
置かれている。
ずっと前からそこにあるのに、
Shiokazeはまだ、誰かが弾いている
ところを見たことがない。
店は夫婦でやっている。
無口な店主は音楽好きで、
いつも自分の選んだ曲を流している。
古いアメリカのジャズが多い。
たぶん、かなりこだわっている。
Shiokazeが曲を考えていると、
お店のスピーカーから
軽いラテンのリズムが流れはじめた。
明るいのに、どこか影がある。
軽快なのに、少しだけ落ち着かない。
ピアノの音が入った瞬間、
Shiokazeはふと顔を上げた。
その音が、なぜか、店の隅の
アップライトピアノから
鳴っているように聞こえたからだ。
もちろん、そんなはずはない。音はスピーカーから流れている。
それでもShiokazeは、しばらくそのピアノを見つめていた。
普段はあまり意識しない。
ただ、そこにあるだけの古いピアノ。
でも、その曲を聴いているうちに、昔、家にあったピアノのことを思い出した。
「弾いてみる?」
「え?」
カウンターを見ると、
店主がこちらを見ていた。
「この曲が流れてから、ずっとあのピアノ見てる」
こだわりの曲にShiokazeが反応したからか、
店主はすこし嬉しそうな顔をしている。
「……たぶん、俺と同じこと考えてたんだろ。
この曲のピアノ、古いアップライトみたいな音がするから」
「あの、弾いていいんですか?」
「構わないよ、
まあ、ちゃんと音が出る保証はないけどね」
Shiokazeは席を立って、ピアノに向かった。
久しぶりに座るピアノの椅子。
独特の、古いアップライトピアノの匂い。
どこかで知っている匂いだった。
古いけれど、綺麗に掃除されている。
奥さんが時折、拭いているのを見かけていた。
Shiokazeは鍵盤にそっと指を置いた。
最初に鳴らした音は、少しだけ揺れていた。
調律がずれているのか、部屋の空気がそう聞かせているのか、 すぐには分からなかった。
でも、嫌な音ではなかった。
むしろ、その揺れが、家にあったピアノに似ていた。
父がまだ家にいた頃、この音は、夕方の部屋によく残っていた。
もう一音、鳴らす。
それから、簡単な和音をひとつ。
指が、勝手に動いた。
曲、というほどのものではない。
子供の頃、父が流していた古い音楽を、
鍵盤の上で探していたときの、頼りないフレーズ。
忘れていたはずなのに、
指だけが覚えていた。
弾きながら、
Shiokazeは少しだけ笑った。
懐かしい、と思った。
でも、それだけではなかった。
窓の方から、風が入ってきた。
カップの音が、小さく鳴った。
奥さんが誰かに「お待たせしました」と言う声が聞こえた。
その全部が、さっきのフレーズに少しずつ混ざっていく。
昔の音ではなくなっていく。
けれど、不思議と、遠ざかっている感じはしなかった。
むしろ、やっと今の場所に戻ってきたような気がした。
「……それ、何の曲?」
「あ、昔からこういうのを好きで弾いていました」
「多分、父が聴いていた曲の断片を集めた感じです」
「そういうのは、ちゃんと書いといた方がいい」
「へぇー、そのピアノから、
こんな音が出るのね」
奥さんが思わず口にした。
「そうだな、俺も久々に聴いた。
こんな音を出すんだな」
「ありがとうございます。」
Shiokazeは席に戻り、
PCをしまい始めた。
バッグを背負って店を出ようとすると、奥さんがカウンターから出てきて見送ってくれた。
「また弾きに来てね」
「え、いいんですか?」
「混んでない時ならな」
「ねえちょっと、混んだことなんてないじゃない」
「余計なことを言うな」
奥さんは小さな箱を
Shiokazeに手渡した。
「はい、ドーナツ、
持って帰って」
「え?そんな…」
「今日はありがとね」
「いえ、こちらこそ、
ありがとうございます」
「あの人があんなに喋るのも
珍しいよ。
嬉しかったんだね」
Shiokazeは会釈して、
店を出た。
ピアノの音の余韻が、
古い記憶と混ざり合う。
本当に家のピアノが、
戻ってきたような気がした。